平成12年1月8日、明鏡塾が発足いたしました。まだ新しい団体ですが、現在約500名の子供たちと、50数名の大人たちで稽古に励んでいます。  子供たちは皆、自信と勇気、思いやりと優しさを身につけ、明るく育っています。成人は、柔らかい動きの空手道を稽古し、しなやかでありながら強さも身につけ、どんな人とも本当に仲良く稽古しています。  明鏡塾は、日々、己の心の鏡を良く磨き、いつも感謝の気持ちを忘れないで、大きな目標に向かって頑張っています

少年少女
指導法

 息子に空手道を教えたいという思いから、近くの小学校をお借りして、平成2年1月より10数名でスタートした「練馬空手道育成会」も今では、「夢道塾」と「明鏡塾」の2つの支部に別れ、会員も併せて600名を越える会に成長しました。
 会発足当時の私は、空手道の稽古歴が浅かったので、子供たちの躾と、準備体操を担当し、補佐役として子供たちに接してきました。きちんと正座ができ、挨拶ができる子供になってほしいと願い、また大きな声をしっかり出して、ストレスを発散させようと考えました。父母からもそんな子供に育てて下さいと頼まれたりもしました。だから最初は「声をだせ!」「姿勢を正せ!」そればかりでした。

 最初の審査会を迎える頃になると、子供たちは、すっかり私の号令に反応するようになってきました。
 また子供たちは、審査の点が良くなるようにと技のことをいろいろ聞いてくるようになりました。子供たちは、たいへん素直です。指導者の教えをよく聞き、そしてよく真似ます。良い形も、悪い形もそのとおりに真似、だんだん指導者のコピーのようになっていきます。
 未熟者の私は、たいへん困りました。師がくり返し子供たちに教えていることは、頭では理解できるのですが、いざ自分で動いてみると体が思うように動きません。肩に力が入ってしまったり、腰が回ってしまったり、自分で発している言葉と自分の体の動きがちぐはぐなのです。これでは子供たちに指導は出来ないと思い、私も子供たちと同じように指導者の形を真似て、焦らず稽古を重ねることにしました。子供たちには頭で理解したことを言葉で表現し、直接手を掛けて形を直していくようにしました。

 

 私は、子供たちを良く褒めます。子供たちは褒められて成長していきます。大きな声が出たといっては褒め、受け技でも、突き技でも、蹴り技でもいつもより良いときは、叱ったときの倍以上褒めます。そのときの子供たちは、生き生きして本当に嬉しそう、そしてやる気を体全体で表現してくれます。しかし、いいかげんな稽古をしたり、人に迷惑をかけるようなことをすれば必ずその場で叱ります。しばらく正座をさせて、小さな声で叱ります。子供たちは大きな声で叱られることには慣れていますので、いくら声を張り上げても効果は一時です。小さな声で話すことで子供たちは聞き耳をたて、一生懸命聞こうとします。受入れ態勢ができたときに話す一言はしっかり頭に入ります。だから、どんなにふざけていても私の目を見るとすぐ静かになり、同じことで何度も叱られることはありません。子供たちにやる気が出たとき集中して稽古します。もちろんどんな小さなことでも褒めながらです。子供たちは無言でいろいろなことを訴えます。私たちにいろいろ教えてくれます。今は褒めてほしいんだよ、叱ってほしいんだよ、息抜きがしたいんだよって、本当に良く知らせます。それを指導者は素直に受け止め、できるだけ子供たちの要望に応えてあげなければなりません。一方的に技を教えるだけでは子供たちは育たないと思います。キャッチボールのように投げたり受けたりして、はじめて子供たちの心をつかむことができるのです。
 私は、子供たちと仲良くなるために、よく相撲をします。そして、子供たちの心の中を少しでも知ろうと努力しています。何としても倒そうと一生懸命掛ってくる子供たちの心の中はさまざまです。父親がいなくて淋しい心の中が見えたり、いつも母親に叱られてばかりでストレスいっぱいだよと言っている心の中、または、愛情いっぱいに育てられちょっぴり弱虫な子供の心の中をのぞくことができます。そんな子供たちの心の中が見えたとき、それなりの対応をしなければなりません。それが私の役目だと思っています。
 淋しい子供にはたくさんの愛情をあげ、愛情いっぱいで弱虫の子供にはちょっぴり厳しくしなければなりません。褒めるときはみんなの前で大きな声で褒め、叱るときは今何で叱られているのかをしっかり教えながらそっと叱ります。ときには頭を拳でゴリゴリすることもありますし、足払いをすることもあります。でも子供たちは、叱られても叱られても寄ってきます。こんな子供たちが私は大好きです。そして子供たちは愛情を注げば必ずこちらの気持ちが通じますし、きちんと応えてくれます。針谷夕雲は、「春雨の分けてそれとは降らねども、受くる草木はおのがさまざま」とよんでいますが、どの子供も同じように教えているのに、育ち方はさまざまです。あっという間にうまくなる子供もいれば、何年も皆勤賞をとるくらい休まず稽古している真面目な子供でも、なかなかうまくならず、まるで亀のような子供もいます。それでも、どの子供も着実に上達していることは確かです。
 今までに黒帯を締めた子供は100余名おり、次の審査で確実に取れるであろう子供も数名います。本当の目的は黒帯を締める事ではありませんが、子供たちのささやかな希望がそれであっても良いと思います。念願の黒帯を取った子供たちに対して、決してねたみもせず、本当に心から「おめでとう」と言っている他の子供たちの優しい心をたいへん嬉しく思っています。

 

 子供たちは素直に演武しますので、その支部の気質、特徴がもろに現れます。型の演武は、各支部によって柔らかそうにみえる型、固そうに見える型、根本は同じだと思いますが私の目には違う型にみえてしまいます。型を演武するとき、その人の心が表現されると思います。従って、柔らかい型、固い型、大きい型、小さな型、立ちの低い型、高い型と違いがあっても、また、力の強弱、体の伸縮、技の緩急の手法がそれぞれ違っていても、その人の思いが入っていて、その人の人生を感じさせるような演武であれば良いと思います。ただし、基本技を大切にし、正しい形、姿勢で何度も何度も正確に稽古しなければ、本当に利く突き、蹴りが生まれません。
 完全に自分のものになったときから、自分なりの工夫が始まっても良いと思います。書道家が基本をマスターした後、絵のような文字を書いていますが、素人が見た時、何と読むのかわからない文字でも、なんとも美しく、うっとりするようなことがあります。それと同じで、基本をマスターした後は、自分なりに、どこにもスキなく、誰が見てもはっとさせられるような形になれば、多少崩しても良いと思います。しかし、それをそのまま子供たちに教えるのは大変危険だと思いますので、子供たちにはあくまでも基本どおり、低い姿勢で、しっかり突き、しっかり蹴ることを教えようと思います。
 現在の制定型は、太極初段、平安初段、平安二段、平安三段、平安四段、平安五段、鉄騎初段、鉄騎二段、鉄騎参段、抜塞大、抜塞小、観空大、観空小、半月、燕飛、岩鶴、十手、慈恩、明鏡となっています。段を取得する上で必要な型は、太極初段(白帯全員)、平安の型の中から一つと、鉄騎初段(黒帯取得時)です。

 子供に組手を教えるのはたいへん難しいと思います。子供たちは組手を、単なる型の延長のようなとらえ方をします。突き手がこう突くからこう受ける、受け手がこう受けるからこう突くと、それは型どおりに行なうだけで、本当に気迫のこもった組手は無理だと思います。よく「相手の目を見て!」と言いますが、大人ならそのとおり相手が出て来る瞬間に出られるのに、子供たちは馴れ合いで行なってしまいます。息を合わせることができないので、突き手が本気になると受けきれず、突きが入ってしまいます。とても難しいことだと思います。中学生でなかなかうまくいかず、突き手がフェイントをかけたり、受け手が逃げ腰になったりして、組手の本来の意義が理解できません。
 私は平成2年に日本剣道参段を取得しており、何度の試合に出場していますが、初心者の頃の剣道と今では大きな違いがあります。初心者の頃は、チャンチャンバラバラとただがむしゃらに試合を行い、当たった、当たらないで喜んだり、くやしがったりしていました。参段になった頃からの私の勝ち試合は、手数が少なくすべて一発で決めています。決められた時間内に勝敗を決めるため、必ず相手が先に打ってくるので、その瞬間に面を打ち、または胴を打って終わります。空手道の稽古を通して学んだ「後の先」、剣道も空手道も同様で、相手が突くより一瞬早くでなければ倒せないと思います。気持ちの入っていない馴れ合いの組手をしても意味がなく、本気で突こうとする気持ち、本気で受けようとする気持ちがとても大切です。
 私は、師と本気で組手をしようとすると震えることがあります。師の気持ちが充実しているときだと思いますが、怖くて身がすくむのです。しかし、師であっても心の迷いや相手を見下すような心になったときは、不思議に師の動きがとても遅く見えるのです。私が竹刀を持ち、師が私の打ち下ろす竹刀より早く突き、蹴りを出すという稽古をしたことがありました。10回に1回くらいは、私の気が勝り、竹刀で師の頭を打つことがありました。このような稽古は子供たちには到底無理であると確信していますが、型の意味を理解するために基本一本だけは行なっています。

 空手道の稽古をしている子供達の親から、いろいろな話を聞く事があります。いじめっ子だった子供が優しくなった、無気力だった子供が空手道の稽古を一度も休まず皆勤賞をとった、家の中に閉じこもりゲームばかりしていた子供が外に出て空手道の型を稽古するようになった、横道にそれそうになった子供が空手道によって修正されたと、子供たちが良い方向に変わった話がたくさん聞こえてきます。私の求めているものが、少しずつ現実になって返ってくると、やはり空手道の指導に首を突っ込んだことは私にとって間違いではなかったし私の気持ちがきちんと伝わっていると確信し、嬉しく思います。
 私自身にも大きな変化がありました。空手道を習い始めたばかりの頃は、型の稽古ばかりでちっともおもしろくないし、踊りみたいで存在感がなく実戦に役立たないのではないかと思っていました。そんな気持ちから、太極拳、剣道、弓道、合気道、杖術、柔術、居合道など他の武道を習いに出掛けました。日本舞踊の中にも、何かが隠されているのではないかと思い習ってみました。大森曹玄氏ご存命の頃、中野高歩院の道場へ出向いたこともありました。しかし、どこへ行っても私の本当に求めているものに出会うことがありませんでした。疑問を抱きながらもただ黙々と型を稽古していた空手道の意味がふと解ったとき、私はたいへん遠回りをしていたことに気がつきました。今まで習いたいと思っていたこと、私の求めていたことが、空手道の中にすべて入っていたのです。まるで童話の中の「青い鳥」のようでした。故江上茂先生が本にも書かれている「愛」についてもようやくわかりました。山岡鉄舟の「心の中に刀を」という意味も、上泉伊勢守信綱、柳生石舟斎宗厳をはじめ、過去の武術家たちの残した道歌の意味が、全部空手道の型の中に隠されていることがわかりました。私は、どんなときでも子供たちの方を向いて、子供たちの中に入り、子供たちに溶け込むようにしています。指導者と子供たちとの間をあけず、それでいてけじめはしっかりつけ、大きな愛情で包み込めるように努力しています。まだまだ未熟な私、本物を求めて、いつでも自然体でありたいと思います。

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